カブもオートバイ、課税標識:児島

ウイットたっぷりでハラがよじれるほど面白いオリジナル駄洒落でおなじみの「彼のオートバイ、彼女年増」には遥か遠く及ばないけど、まあいいでしょう。アタマの「カ音」と「オートバイ」と「島」に地口を乗っけてみました。毎度のことですけどギャグの解説ほど情けないものはありませんね。


ではナンバープレートの話題から。

原動機付自転車のナンバープレートは「課税標識」が正式名称です。市町村が管理発行しているもので、例えばわたしが住んでいるエリアで原付のナンバーを取ったら「倉敷市 あ 12345」みたいな文字が表記されたものが渡されることになっています。これは日本全国どこでも同様だと思います。


今年の6月の終わり頃のことです。師匠先生のところから、ホンダスーパーカブC65が、わたしのところにやってくることになりました。ポピュラーなC70シリーズの前身で、65ccのOHCエンジンを積んだ1965年生産のこのカブには、新車のときからずっと同じナンバープレートが付いているようです。ちなみに1965年当時には、わたしの住むこの町は「岡山県児島市」と言われていました。ですから、ナンバープレートには「児島市 11021 岡山県」とあります。

1964年産まれのわたしは、岡山県児島市に出生届が出された、という内容が記述された自分の戸籍謄本を見たことがあります。ちなみに1964年は東京オリンピックが開催された年です。(2020年に本当に東京オリンピックが実施されたなら、このパラグラフを書き換えなければなりません)

1967年の2月1日に、岡山県児島市は旧倉敷市・玉島市と合併しました。その日からわたしの住所地は、岡山県倉敷市児島なんとか、ということになり、ともなって我がエリアの原付の課税標識は「倉敷市 あ 1234」といった表記に変更されたのは言うまでもないことです。


そうでしたか、児島市が倉敷市児島となったのが、今を遡ること49年前でしたか。

今年は、ウルトラマン生誕50年だとか笑点50周年ということで、いろいろイベントが催されているらしいけど、それよりも前に既にこのC65はそこいらを走り回っていたんだなあと当時に想いを寄せると感慨深いものがあります。


師匠先生によると、昭和が平成の御世に移った頃、とある方から譲渡されたのだそうです。師匠先生と、そのお友達のお二人が地方新聞の記事に旧車マニアとして掲載される機会に恵まれた際、その記事を読んだ初代オーナーが大切にしてくださるなら、ということで現在に至り、その車体がここでわたしの元にもたらされたのです。

わたしのものになるのだから、まずは三代目オーナーとしての名義変更から。当然の義務です。

平成元年当時の登録書類は名刺大のカードに手書きで処理されたもので、児島市ナントカと記入されていて、名義欄には師匠先生のお名前があります。

税務課窓口では、60年配の女性とハタチそこそこの女性のふたりが対応してくれましたので、ひとまず書類を提示しました。若い担当者は、面倒な客が来た、と思ったかも知れません。手書きの登録書類には「児島市」だし、しかも廃車でなくて名義変更だし。

「おどりゃ、おめぇやこぉじゃあ ハナシにゃなりゃせんわいや」などとカウンタ越しに胸ぐらを掴むというようなことはなかったけれど様々なやり取りはありました。が、ともかく現代の様式で名義変更書類は仕上がってきました。なんとかなるものです。

気になる児島市の欄については、「書類上は倉敷市になってしまいますが、標識はそのままご使用できます」という説明を受けて、わたしは納得しました。

大きなコトを言うようですが、このニッポンで児島市ナンバーの初期型C65のオーナーは、わたしだけです。(春風亭昇太師の師匠、春風亭柳昇師匠風味で読んでね。お願い)

さあて続いては自賠責保険加入手続きです。

我が家の冷蔵庫と呼ぶこともある、徒歩2分の場所にあるセブンイレブンのいろいろ多機能複合機の前に立って、操作すること約3分。このくらいの所要時間で手続きのすべてが終わって、すぐにC65を乗り回すつもりだったのですが、その計画がもろくも崩れたことに気付きました。

コンビニエンスストアで三井住友海上が展開しているシステムでは、倉敷市の原付の課税標識の場合、必ず平仮名ひと文字が入力されていないと、エラーだと認識されるロジックが組み込まれてあるようで、使いものになりません。

かくなる上は保険会社に乗り込むしかありません。
名義変更が終わった書類と、倉敷市役所でとった言質と、カブC65と児島市ナンバーの写真を窓口に提示していろいろ説明して、ああめんどくさいなあ、と思ったころ、「クラシックカーでは稀にあるんですよね」と隣の窓口にいた人から助け舟が。自賠責保険に加入してますよステッカーがようやく手元に渡されました。


自宅に戻りました。まずはレッグシールドを取り外してエンジン状態のチェック。プラグはスパークするか?エンジンオイルの量は妥当か?燃料は正しくキャブに行き渡っているか?など諸々を調べてから実働するかテストです。

カブを始め、SS・CL・CD・ダックス・シャリー・モンキーにゴリラにモトラ、そしてJazzとかソロとか(まだその他にもきっとある)に搭載されることにもなったOHCエンジンの礎の、わたしのC65エンジンはキック数発で簡単に起動。

このまま6Vバッテリーを付けていない現状でアクセルを煽って回転数を上げたら、電圧制御ができないせいで各種電球のフィラメントが焼損する恐れがあることはわかっているのですけど、そこいらじゅうを走ってみたい衝動にはかないません。今日のわたしは手信号を駆使することにしました。なにしろ左手はザル蕎麦のセイロとか長持ちを持っていないので空いてます。手信号するには持って来い、なのです。いそいそとレッグシールドを取り付けました。テストランの準備オッケーです。

1965年製造のわたしのスーパーカブ65は、児島市ナンバーを付けてわたしの町、倉敷市児島を、1964年児島市産まれのわたしを乗せて走り出しました。

速い、速いです。軽快です。このくらいパワーがあるならじゅうぶんです。


1965年、当地 児島で日本初のジーパンが製造されましたー、などの触れ込みで村興し町興しプロジェクトの途上にある、わが町児島の幹線道路をぐるりと一周、走ってきました。

父が生前言っていたことを思い出していました。「マルオ被服の社長さんが尾崎さんというヒトで、丸に尾の屋号でマルオ。元々は作業服を縫製していたメーカーで、その弟さんと共同で開発したデニムのズボンがどうやら国産初のジーパンらしい。兄は後にビッグジョンを立ち上げ、弟はボブソンを創業した。つまりスーパーマルオ・ブラザーズじゃの」くだらない駄洒落好きは、ブラッドラインだと思う次第です。ボブソンは既に廃業したそうです。ビッグジョンは規模を縮小して、創業家出身ではない社長さんが頑張っていると聞きます。

そういやわたしが子供の頃から、いろんなジーンズメーカーが出来たりツブれたりしていました。あんまし認識していなかったことなのですが、国産ジーンズの歴史とわたしの年齢ってほぼ同じなんですね。モノゴコロがついた頃には、近所中のオバちゃんたちが作業服か学生服かジーンズの外注内職をしていた風景が記憶にあるのですが、わたしが5歳なら国産ジーンズも5周年を迎えてたんですね。っていうか、そんなもんだったんですね。

荷台にビッグジョンのジーパン置いてみました


C65の状態については、きちんと走ることができると満足したので、引き続いてはレストレーションの方針など検討です。

レッグシールドを再び取り外しました。レッグシールドは左側の足元あたりに、20cmくらいの裂け目があります。ぜんたいを水洗いして乾燥させて屋内に入れました。


ホネむき出しとなっているC65周辺の後片付けをしていたら、大学二年生の長女アイリがホンダDioFITで帰宅してきました。

「なにそれ、このバイクかわいい!わたしの免許で乗れるん?」

乗れないと分かったとたん、彼女は原付二種免許いや小型自動二輪いや違う、普通自動二輪MT小型限定の免許が欲しい、と取得に向けて算段を始めました。
面白いことになってきました。

じつは せんだって僕にも娘ができた
女房はめちゃくちゃにうれしがり
僕はうろたえて質屋に走り
それから酒屋をたたきおこしたのだ

僕がこの世にやってきた夜
おふくろはめちゃくちゃにうれしがり
おやじはうろたえて質屋に走り
それから酒屋をたたきおこした


系図 / 高田渡

コメント

カブもオートバイ、課税標識:児島" に1件のコメントがあります

  1. w13irie

    WordPressについては、まったくすべてがヨチヨチ歩きです

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